153 甘栗のしあわせ

子どもの頃、初詣に行くとドラム缶の様な焼き台で栗を炒っている光景を
よく目にしました。小石とともに甘栗がぐるぐると回っている焼き台。
そのまわりだけが妙に暖かく、いい香りがするので思わず
吸い寄せられるように近づき、花に集まるミツバチに自分はなったのかと思いました。
栗を炒るおじさんと目が合うと妙にどきどきした感じもしますが、
思わず目をそむけお父さんの袖を引っ張っていた記憶があります。

10回に1回くらいでしょうか、「買ってあげる」と言ってもらえる事がありました。
この様な時は自信満々に店の親父を睨み返したものでした。
甘栗親父は大きいやつは二千円、真ん中が千円、小袋なら五百円だぁ
どれにするのかと選択権は一応与えてもらえるのですが、
後ろからお父さんは真ん中でいいと言われます。
私が迷っていたのはなんだったのかと思いますが、
お金を支払うお父さんには逆らえませんでした。今に見ていろ大きくなったら、
一番大きな二千円のを買ってやると思いましたが、
手渡された甘栗が暖かいので胸の所に押しつけながら寒風の中を
歩いた思い出がよみがえります。(今では叶った望みです)

家に帰ると冷たくなった体をこたつに入れて、先ほど買ってもらった甘栗を
取り出しますが、
お母さんが「うがいはしたの、手は洗ったの」と色々と注文を付けてきます。
仕方がないのでしばしのお別れだと思いましたが、
誰かが先に手を付けるのも妙に悔しかったので、
こたつの中に甘栗を隠してから、手を洗いに行きました。

戻ってくるとお父さんはすでに食べていました。
おいおいちょっとまってよ、数を数えたのかよぉ、
私の分まで食べていないのかとむきおわった殻を確認しながら、
どれくらい食べたのかをチェックするのでした。
この様子なら五個も食べていないでしょう。
なら、私も五個は無条件で食べられると思っていました。
で、赤い袋から五個取り出し、これは私の分だと宣言したのでした。

昔の甘栗はつやを出すために油を塗っていましたから、
1つめをむいている(むくと言うが現実にはむけないので、
歯で割るって感じでしょうか)と。すでに指が黒くなっています。
おかあさんが手を洗いなさいと言ったけれど、いきなりから指が真っ黒になるのなら、
意味がないのではと自分に言い聞かせます。

パキッと殻が割れる音とともに中から小さな栗がでてきます。
多少の渋皮が残りましたから、きちんと取り除き口にほおばると生暖かくて
甘い栗が口の中に広がります。思わずおいしいねぇと言ってしまう瞬間でした。
これで残されたのは後四個です。
次のを口に入れてまたパキッと割ります。
今度は勢いよく噛んでしまったので殻と一緒に中の栗まで半分に割れてしまいました。
こうなったらいけません半分に割れた殻の両方に実が入っています。
これをどの様にして取り出すかと考え、頭にひらめくのはスプーンでしょう。
スプーンを台所から持ってきて一生懸命取り出すのですが、
どんどんと実が粉々になってしまって、渋皮に実が残ってしまいます。
これがめちゃくちゃもったいない、これを全部取り出さないと損をした気になりますから、
スプーンの柄でもほじくり回します。
一応は取り終えた様な感じにも見えますが、
茶色い渋皮に白い実の部分があると気になって仕方がありません。
しかし、ここでお父さんが新しい栗を食べようとすると、
なんかここまで一生懸命している自分が悲しくなると言うか、
バカらしくなってきて、さっさともう一個もらった方が得だと考えるのでした。
なぜか思考回路ではお父さんが一個取るたびに、
自分も一個もらってもいいんだと決めているのでした。
お父さんがむいて食べると殻に渋皮もついて、実だけうまく取り出していたので、
大人になるとこんな事もできるのだと妙に感心していた自分がありました。

1つづつむいて食べていたのでは大人の速度に追いつけない自分は作戦を考えて、
先に全部むいてから食べる作戦に切り替えました。
ここまで来ると食べると言うより業に近く、
何もおいしくない栗の皮を歯でパキッパキッと割っては中の実を取りだしていました。
手はどんどんと黒くなるし、想像できませんでしたがきっと口の回りは
黒いだろうなぁと考えるのも嫌になる自分を否定しながら、
本当に「むく」と言う作業に没頭させていました。

性格なのでしょうか、きれいにむいた栗を机の上に並べるときは
数えやすいようにと5つになったら並べる場所をずらしていくと数が早くできるとか、
自分の成果に対して結果を早く求められるようにしていたのです。
これで二列目だから全部並べ終わると十個になるなぁと心でつぶやき、
むかれた甘栗が一列に並ぶと妙にうれしかった。
しかし、割れてしまったり、渋皮がきれいにむけなかったりすると、
それを列に加えるとイメージが悪くなるなぁと思い、更に列を別に設けるのでした。
自分がほとんど栗むきマシーン状態になっていて、
下を向きながら作業に没頭していると、見上げたときに栗が1つなくなっています。
きちんと5つづつ並べていたのですぐにわかってしまいます。
犯人なんか考えるまでもありません。目の前のお父さんなんです。
「栗を取られたぁ」「栗を食べられたぁ」頭に言葉が浮かぶと言うより口から
機関銃の様にでてしまうから、食べ物の恨みは小さいときの方が
大きかったのかと思います。
お父さんはテレビを見ながら、新聞を読みながら栗を食べたので、
一応は「ごめん、ごめん」と言う声がするだけで、顔は新聞にむかっています。
これでは誠意も何も感じられませんよ。挙げ句のはてに何を言うのかと思ったら、
「栗をむくのが好きかと思った」と言われます。
冗談ではない、舌や口、指を真っ黒にしながら変な味がする栗を口で
割り続けているのに、この言葉はないでしょう。
今なら絶対にぐれてしまうのかと思います。
私も当時はおバカさんだったのでしょう。
食べられたので損をしたと思うので倍は取りたいと言い、
新しい栗を余分にもらったのです。
しかし、よく考えたら代わりにむいて欲しいと考えなかったのかと今なら思います。
余分にもらった栗のおかげで、またむく作業が続けられるのでした。

小さい頃って不思議です。
目の前の栗に意識が向けられていると他のことは全然頭に入っていないのです。
いい加減に手は黒いを通り越して何か繊維質みたいな物が蓄積するように
手を覆っているのです。
それが気になってくるとこたつ布団の端の方になすりつけるのです。
これだけでも繊維質が取れるので一応はきれいになった指を確認しつつも、
またむき始めます。
机の上ではむいた栗が三列目に突入している時です。
「我ながらよくやった自分を誉めて上げたい」と思った瞬間です。

おかあさんが私の隣に入ってきて、布団の端を持ち上げ
「何、この黒いのはぁ」と私の頭に激痛が走るのが速いのか、
これから怒られるであろう自分が見えてしまったのです。
この時に自分の犯した罪を意識したのでした。
「あんたはこんな事をしたから、もう栗はなしだ」と言われ、
作業途中の栗まで全部没収されてしまいました。
更に「丁度いいわ」と言い私の大事な栗まで2つほど食べられてしまった。
本来なら悲しいはずの話なんだが、自分が布団を汚してしまったと言う
負い目があるので、何も言わず従わざるを得ない状況になっていることも
理解できました。
もう何十年も前の話だが今も鮮明に覚えているのはなぜなんだろうと思いますが・・・
最近の甘栗は手が黒くならないとか、
むいてしまって実だけになっている物も売り出されています。
ある部分で自分の楽しかった思い出も、
今では体験出来ないような話になるのでしょうか?

甘栗って、暖かくって、むくのが楽しい食べ物だと思います。
今の甘栗に情緒を求めるのは無理なんでしょうか・・・・(*^▽^*)ゞ









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